空間の香りを考える

私たちは空間を目で見るだけでなく、音、温度、触覚、そして香りによって感じています。香りは空間のどこに存在し、私たちはそれをどのように認識しているのでしょうか。
空間は、目だけで感じるものなのか
部屋に入った瞬間。
私たちはまず何を見るでしょうか。
壁、床、家具、光、窓。
視覚によって、その場所の大きさや形、明るさを捉えます。
しかし同じ場所に入ったとき、私たちは同時に、「木の匂いがする」「少し湿った空気を感じる」「外から食べ物の匂いが入ってくる」といった情報も受け取っています。
つまり、私たちが感じている「空間」は、視覚だけによって作られているわけではありません。
香りもまた、空間を知覚するための情報の一つなのではないでしょうか。
香りには「場所」の情報がある
香りは、物の存在を知らせるだけではありません。
その香りがどこから来ているのか。
どの方向に広がっているのか。
どのくらいの距離にあるのか。
そして、その場所にどのような環境があるのか。
こうした情報が、匂いの分布の中に含まれている場合があります。
特に動物の嗅覚研究では、匂いの分布や濃度の変化を利用して、物体や餌、移動経路などの空間情報を捉える行動が研究されています。嗅覚環境には時間的・空間的な構造があり、それを生物が利用していることが示されています。
では、人間の場合はどうでしょうか。
私たちは視覚ほど明確に「匂いの地図」を意識しているでしょうか。
ここには、まだ多くの問いがあります。
「この場所の匂い」という感覚
駅に入ったとき。
古い木造の建物に入ったとき。
森林の中を歩いたとき。
海の近くに立ったとき。
私たちは、ときどきその場所を説明する前に、「この場所には、この匂いがある」と感じることがあります。
これは単一の香料によって作られるものではありません。
植物、建築材料、土壌、食べ物、人、湿度、温度、換気など、さまざまな要素が重なって、その場所固有の匂いの環境を形成しています。
建築環境におけるこうした匂いの知覚は、近年 smellscape という概念からも研究されています。smellscape研究では、人・匂い・建築環境の関係や、匂いを記録・分析する方法などが議論されています。
香りと空間記憶
空間の香りについて考えるとき、もう一つ重要になるのが 記憶 です。
たとえば、何年も訪れていなかった場所で、以前と似た香りを感じたとします。
その瞬間に、建物の入口。そこで見た風景。一緒にいた人。そのときの季節。といった記憶が呼び起こされることがあります。
香りと場所の結びつきについては、近年、 odor-place association や olfactory spatial memory といった観点から研究が進められています。
2025年に発表された系統的レビューとメタ分析では、24研究を対象に、人間が匂いを手がかりとして場所や経路を記憶・判断する能力が検討されています。研究では、匂いが空間記憶やナビゲーションにおけるランドマークとして機能する可能性が示されています。
これは、香りを単なる「空間演出」として考えるのとは、少し違った見方です。
香りで空間を「つくる」のではなく
香りを使った空間デザインでは、「この香りを使えば、この空間はリラックスできる」という考え方がよくあります。
しかし、研究室ではもう少し慎重に考えたいと思います。
なぜなら、同じ香りでも、感じ方は人によって異なるからです。
また、香りそのものだけではなく、どこで、いつ、どのような環境で、どのように提示されたかによっても、体験は変わります。
そのため、「香り → 感情」という単純な関係だけではなく、香り × 空間 × 時間 × 文脈 × 個人の経験という関係から考える必要があります。
空間の中で香りは動いている
もう一つ、香りを空間研究の対象として考えるうえで重要なのが、香りは固定されていないということです。
視覚的な家具は、その場所に置かれていれば基本的に同じ位置にあります。
しかし香りは空気とともに移動します。
温度。湿度。気流。換気。空間の大きさ。障害物。人の動き。
こうした条件によって、香りの分布は変化します。
つまり、空間の香りは「物」ではなく、「環境の中で変化する現象」として見ることができます。
これは、香りと空間を研究するうえで非常に重要な視点です。
研究室からの問い
桜井・森香ノート研究室では、空間の香りを「良い香りをつくる方法」としてだけではなく、
空間を知覚するための感覚情報
として考えていきます。
例えば、
- 同じ香りでも、広い空間と狭い空間では印象が変わるのか
- 香りの位置や濃度の違いから、人は空間をどのように認識するのか
- 香りと視覚情報が一致しない場合、空間の印象はどう変化するのか
- 特定の場所の香りは、その場所の記憶とどのように結びつくのか
- 日本の森林、寺院、駅、住宅などには、それぞれどのような「smellscape」が存在するのか
まだ十分に分かっていないことがあります。
だからこそ、観察する。記録する。比較する。考える。というところから始めます。
次の問い
私たちは、「この場所はどんな匂いがする?」と聞かれたとき、何を思い出すのでしょうか。
そして、その答えは、その場所そのものの特徴なのか、それとも私たち自身の記憶や経験によって作られたものなのか。
香りから空間を考えることは、「人は場所をどのように感じているのか」を考えることでもあります。
桜井・森香ノート研究室では、この問いを「香り・空間・感性」の交差点から追っていきます。